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  東家区のあらまし
東家について  
 
    東家とは

東家は橋本市、紀ノ川中流域の橋本川下流右岸に位置しております。
地名の由来は不詳ですが、橋本市史上」によりますと、
当地には古い時代「あづま屋」と称される山家があり、
また、東家は峠の仮字で、北部の山をさして、
東家と称する説もあるといいます。
地名は、南北朝期から、古文書などに見られます。
また、大阪・河内方面と高野山を結ぶ高野街道と、
和歌山・奈良・伊勢を結ぶ大和街道が交差する位置に東家は所在し、
交通上の要衝であるとともに。様々な古文書からも、
荘園守護の支配ののための要地であったと考えられます。
地区内の丘陵先端の台地上には、弥生から中世に至る、
住居跡などの遺構や遺物のある東家遺跡があり、
ここが、守護支配の拠点であっただろうと推定されます。

 
 
    東家の地名(寺脇村と東家村)について

さて、私たちが住んでいる所は、現在橋本市東家ですが、
明治初期以前は、寺脇村と東家村と、
二つの村でした。

紀伊續風土記には、次のように記されております。

●寺脇村
「寺脇村は東家村の北一丁にあり、村中に妙楽寺といふ古寺あり、
 村居其脇にあっる故に名とす。
「村中戸数三固一は逆旅商賈・駕夫の類なり」とある。
  田畑高:158石6斗6升3合
  家数:40軒
  人数:209人

●東家村
 東家村は「紀伊見峠を越て高野に至る街道なれば旅舎もあり」と記されている。
  田畑高:334石9斗6升6合
  家数:103軒
  人数:465人

では、その寺脇村と東家村の境界はどのあたりだったのでしょうか。
寺脇は寺の傍という意で、その寺は妙楽寺だと言われています。
古書によれば、紀ノ川畔の近く大森神社の西方に七堂伽藍であったと言われたおりますが、
永仁6年(1298)頃に北条時頼が現在地に再興移設したと記録されています。
その後、寺脇村と東家村は明治11年(1878)に合併して、
東家村となりました。
さらに、明治22年(1889)「市制及町村制」により、
近隣の町村と合併し、伊都郡橋本村の一部となり、
明治27年(1894)本村の町制施行により伊都郡橋本町の一部となる
昭和30年(1955)橋本町及び近隣の村との合併により、橋本市が発足。
当地は、橋本市東家となりました。

 
 
    寺脇村と東家村の寺

「妙楽寺」

妙楽寺は創建時、弘仁11年(820)においては、
紀ノ川畔大森神社の西方に所在する、七堂伽藍の寺でした。
学問や国家祈祷をなす寺院で信徒は少なかったようで。
戒律尊守の律院で、鎌倉幕府を守る「関東祈祓寺」となり、
弘安の役・蒙古軍撃退祈願全国34ケ寺の中の一寺でした。

「観音寺」

寺脇村の総寺は観音寺で、住職談によりますと、
安土桃山時代には在りました。

「陀羅尼寺」

東家村の総寺は陀羅尼寺で、明治後半年に廃寺となり、観音寺と併合。
本尊や大般若経600巻、経の奥書に元治2年(1125)銘のものも保存されている。

(記録:宮西高雄、村木久和)

 
 
       
 
       
 
       
 
 
     

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