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東家のだんじりについて
東家のだんじりは、今から約170年前、天保11年に岸和田の中町の地車として新調され、 現在なお曳行されている岸和田型の地車としては、最古のものといわれております。
※注 一般的に大阪府下や阪神間では「だんじり」は「地車」と表記されますが、橋本市や伊都郡地域では「山車」と表記されることが多い。ここではわかりやすく「だんじり」と表記いたします。
☆略歴
天保11年:岸和田市中町が新調
大正11年:泉南郡木島村清児(現・貝塚市)が購入
昭和23年:泉北郡郷荘村今在家(現・和泉市芦辺)が購入
昭和34年:東家が購入
☆大工
:不明
☆彫師
:花岡一門/花岡源助ほか
☆外観
岸和田型 下地車
●長さ3.39m、高さ3.38m、幅1.51m、総重量約2.5t、総欅造り
※肩背棒(担い棒)を取り外した状態で撮影しております。
☆主要な彫刻
▼大屋根枡合
正面「素盞鳴尊大蛇退治(すさのおのみこと だいじゃたいじ)」
右面「菅原道真、天拝山(てんぱいざん)に祈る」
左面「神功皇后、のちの応神天皇を出産」
天井右「瑞雲と登り龍」
背面「源頼政と猪早太(いのはやた)の鵺退治(ぬえたいじ)」
▼大屋根車板「鷲と猿」
▼横槌
右面前「張果老仙人(ちょうかろうせんにん)」
右面後「東方朔(とうほうさく)」
左面前「西王母(せいようぼ)」
左面後「子英仙人(しえいせんにん)」
<大屋根正面枡合と車板>
<大屋根枡合左面>
▼小屋根枡合
正面「真田与一(この部分は欠損し足跡のみが残っている)と俣野五郎 石橋山合戦」
左面「三浦介義明と上総介広常(いずれも欠損)」
右面「安倍泰成と玉藻前(たまもまえ)」
<小屋根枡合正面>
▼小屋根車板「唐子と鶴亀」
▼大連子/忠臣蔵
正面「吉良上野介発見、赤穂義士の討入り」
平右「吉良上野介を召捕る」
平左「赤穂義士の奮戦」
(この部分は時代背景から明治以降のものと推測されます。)
▼小連子/唐子遊び
正面「唐子闘犬」
平右「唐子闘鶏」
平左「唐子面遊び」
▼小連子横半松良
左面「司馬温公の甕割り(しばおんこうのかめわり)」
右面「老菜子(ろうさいし)」「陸積(りくせき)」
▼土呂幕/三国志
正面「真田与一(この部分は欠損し足跡のみが残っている)と俣野五郎 石橋山合戦」
左面「三浦介義明と上総介広常(いずれも欠損)」
右面「安倍泰成と玉藻前(たまもまえ)」
<正面/大連子・小連子・土呂幕>
<右面/大連子・小連子・土呂幕>
<左面/大連子・小連子・土呂幕>
<小連子/唐子遊び より>
<大連子/忠臣蔵より>
▼見送り/三国志
正面「韓信(かんしん)計を定めて三秦(さんしん)を取る」
大脇左面「漢の高祖(劉邦)芒碭山(ぼうとうざん)に蛇を切る」
大脇右面「黄石公(こうせっこう)と張良(ちょうりょう)の出会い」
左面「始皇帝(しこうてい)と宋無忌(そうぶき:この部分は欠損し足跡のみが残っている)」
左面脇障子「荊軻(けいか)暗殺に失敗」
右面「鴻門会(こうもんかい)、項羽(こうう)と項伯(こうはく)」
右面脇障子「樊噲(はんかい)」
<見送り/正面「韓信(かんしん)計を定めて三秦(さんしん)を取る」>
<見送り/大脇左面「漢の高祖(劉邦)芒碭山(ぼうとうざん)に蛇を切る」>
<見送り左面と左面脇障子>
▼大脇上物見「郭巨 母の為に児を埋める」
▼脇障子上物見「指をかんで心痛む」
▼水板「竜宮伝説」
<水板「竜宮伝説」>
▼木鼻「唐獅子」「梅にうぐいす」
<木鼻>
☆からくりだんじりの痕跡など
江戸期.だんじりが岸和田城内に入る、いわゆる「城入り」が行われていました。
ただ、城の門がだんじりの高さより低いため、からくりを用いて、だんじりの屋根をさげ、城内に入ることをしなければなりませんでした。
この東家のだんじりには、江戸時代に製作されただんじり特有の外観だけでなく、当時のからくりの痕跡など、数多くのものが今もなお残っています。
▼土呂幕横木栓隠し
大屋根を下げるため、もともと左右の土呂幕両端四カ所に、普段の曳行時、屋根が下がらないように四本柱を固定するための木栓がありました。
その木栓隠すために、いずれも東西南北を守護する、仏四天王が彫られています。
左面前「持国天」
左面後「多聞天」
右面前「広目天」
右面後「増長天」
<土呂幕横木栓隠し/右面前「広目天」>
▼摺出鼻(すりだしばな)
これが、からくりだんじりの最大の特徴で、この摺出鼻を引き出し、小屋根を後ろへ移動させ、大屋根を下げます。
これによって岸和田城の門をくぐり、城内へ入ることができるようになります。
摺出鼻を支えるための柱も残っています。
この柱もつ構造は、現在では東家のだんじりにしか残っていません。
<摺出鼻を中心にだんじり後面>
その摺出鼻の小屋根の移動の為の溝(レールのようなもの)の跡も残っています。
そのからくり自体は大正十一年頃に取り外されたようです。
<摺出鼻レール跡>
☆「岸極」の焼印
江戸時代からの彫物には、この焼き印が随所につけられています。
岸和田藩がこの彫物ならば、曳行許可しますという証の焼き印です。
☆書付(花岡源助のサイン)
このだんじりを製作した大工は不詳ですが、
彫刻の責任者、彫り師の花岡源助の銘と、完成した日付の書付(サイン)が残っています。
「浪華在 彫工 花岡源助 天保十一年六月二五日」
参考、引用資料:奥村浩章著「東家の天保だんじり」
この文献の詳細につきましては
こちら
をご覧下さい
☆現在の曳行
昭和34年に東家が購入後、肩背棒(担い棒)を取り付け、現在の形となりました。
何度かの大修理を経て、現在も江戸時代の雰囲気を残しつつ、区民により組織された「東家若連中」のもと、毎年秋祭の際、現役で曳行されております。
東家の氏社は橋本市市脇に鎮座する「相賀大神社」
秋の例大祭は、かつては10月15日でしたが、現在は10月第2土日におこなわれております。
だんじりは東家のたくさんの大人や子供たちにより、五穀豊穣を願っての相賀大神社への宮入りや、市内各所へ賑やかに繰り出し曳行されます。
平成30年の秋祭のだんじりの曳行順路などにつきましては、
「平成30年祭礼」
をご参照下さい
相賀大神社への宮入りは第2日曜日。
この「本宮」の日、祭りの参加者には東家婦人会のみなさんの協力により、「にんにこ(おにぎり)」や「関東煮(おでん)」が用意されます。
秋空のもと、美味しくいただく秋の味。これもまた、祭りの楽しみのひとつです。
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